権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36)
この本を読んだのは10代の頃だった。
そのときは、ふむふむ、なるほどなあと感心したのだが、
成人した頃に売り払ってしまった。
というのも、この本が「筆者と高校生との対話」という、
かみ砕いた平易な文章で書かれているため、
学生向けの本であって、大人が読むものではないと思ってしまったのだ。
これから大人向けの本を読んでいけば、もっと高度な本に出会うだろうと思っていた。
しかし成人した後にいろんな本を読んでみて、この本が滅多にない良書であったことに気づいた。
中でも重要だと思うのが、辞書の権威についての話だ。
成人した後に読んだ本の中で、これと同じ意味のことを書いている本はなかった。
(読書不足なせいかもしれないが)
だからこの本を読んでいなければ、今でもこのことに気づいていなかったかもしれない。
辞書の権威――つまり言葉の定義の問題は、ものを考えたり議論をする上でとても重要だと思う。
ネット上でも、このことを理解していないために誤った議論をしている例が見受けられる。
(この本を読んでもらいたいので、あえて詳しく説明せず曖昧に書いています)
文章が平易だからといって本の価値が劣ることはないし、
難解に書かれているからといって本の価値が高いことにはならない。
そんな当たり前のことを改めて思い知った。
また、自分も無駄に難解な言葉やカタカナ言葉を使うのは戒めようと思わされたのだった。
幸い、この本は今でも本屋に置いてあったので、新書で再購入した。
心の底をのぞいたら (ちくま文庫)
あまりに当たり前のことが通用しなくなっている現代にこんな時代が懐かしいのです。
常識哲学: 最後のメッセージ (単行本)
精神科医にして作家の
なだいなだ(1929-2013)
本名・堀内秀(ほりうち・しげる)
の最後の思索です。
タイトルは『常識哲学』ですが
本書のいちばん大事な点はむしろ
『臨床医の哲学』
にあると私は考えています。
そのタイトルで講演もなさっています。
(講演がもとになって本書が生まれました)
なだいなだの専門は
アルコール依存症の治療でした。
国立療養所久里浜病院などで勤務されました。
母校・慶応大学医学部の精神科教授は
「アルコール依存症は治らない病気」
と定義(?)していました。
事実、いろいろな側面で難しい病気でした。
患者さんや家族を前に
なだいなだはひたすら考え続けます。
「何とかしなければならない。
でも治せないものは治せない。
ではぼくは何をしたらいいのか。
何をなすべきか」
そう考えているうちに、なだいなだは
「これって哲学ではないか」
と気づきます。
大哲学者カントが終生考え続けた命題は
Was soll ich tun? 「何をなすべきか」
です。
奇しくも同じ命題に「必要に迫られて」
到達していました。
まさにこのとき、なだいなだは哲学していたのだ
と私も思います。
難病あるいは難症例を前にして
「これは何か」「何をなすべきか」
と自問自答するのは
すぐれた臨床医である証拠だと思います。
なだいなだが説くように、哲学には
「学ぶ哲学」と「持つ哲学」の2種類があります。
なだいなだのように
生きて行くうえで必要に迫られて考え続けることが
「持つ哲学」であり
大学の哲学科でカントやヘーゲルなどを勉強するのが
「学ぶ哲学」です。
哲学の発展のためには「学ぶ哲学」が必要ですが
「学ぶ哲学」を勉強しても患者さんは治せません。
患者さんを治すのは医学というArtです。
しかし「持つ哲学」が欠落している医学は
モラルの点で劣化したり、あるいは
Artとしても不適切なものになる危険を秘めています。
臨床(bed-side)の原点は
患者さんを前に考える(自問自答する)ことにある
と、私は考えます。
ただし
何の方法(method)も根拠(evidence)も論理(logic)もなく
漠然と考えるのでは「持つ哲学」とは申せません。
そういう意味で
なだいなだに影響を与えたのは
E.M.ジェリネック(1890-1963)が書いた
『アルコーリズムの疾病概念』
という本(邦訳あり)でした。
たとえば
「concept」と「conception」というコトバを区別すること。
あるいは
「定義のしかたが間違っていない限り
その定義が正しいか正しくないかを議論しても始まらない。
それが有用であるかどうかだけを問題にすればよい」
という考え方(プラグマティズム)です。
なだいなだはジェリネックに強く影響されて
(後発医薬品を意味するジェネリックではないのでご注意を)
アルコール依存症の定義を考え
その診断基準を考え
治療法を考えていきます。
(具体的な内容は本書をお読みください)
その結果、生まれたのが
「常識哲学」
でした。
つまりある「臨床医」が必要に迫られて「哲学」した結果
たとりついたのが「常識哲学」というわけです。
従って
「臨床医の哲学」は広い概念ですが
「常識哲学」はそのひとつの例であると
私は考えます。
「常識」の意味やコトバの歴史についても
詳しくは本書をお読みください。
ここでは「常識とは何かを考えること」が「常識哲学」であり
「常識」は時代や地域によって変化する
フレキシブルなものであるとだけ言っておきましょう。
「臨床医の哲学」に興味がある方も
「常識哲学」に興味がある方も
ぜひ本書をお読みになるようおすすめします。
最後に
「常識」というコトバは明治のころ
英語のcommon senseの訳として生まれ
一気に定着しました。
どうやら日本人がいちばん
「常識」というコトバが好きなようです。
逆にフランスでは
デカルトが『方法序説』で使っていらい
bon sens(良識)というコトバのほうが定着しています。
デカルトのbon sensは生まれつきそなわっているものとされ
どちらかというと理性に近いものです。
日本語の「常識」をフランス語には訳せない
少なくともきわめて訳しにくい
ということを末尾の解説で
なだいなだのご令嬢である堀内由希氏が書いています。
直訳したらsens communですが
現代フランスではあまり使われていないとのこと。
この「解説」によると
なだいなだは亡くなる直前まで
「常識哲学」のわかりやすい説明に苦心されていた由。
おそらく
「常識哲学」とはまず「常識とは何かを考えること」であり
そのフィードバックも含めた広い概念に思われます。
その定義じたいにフレキシブルなものを内包しているので
デカルト的な明晰さ(クリアカット)はひょっとしたら
あまりないのではないか
従ってフランス語に訳しにくいのではないかと思います。
伊豆大島 オオツクロ カゴ釣り イナダ Surf-fishing
釣行日 2014.10.10 場所 伊豆大島 北東部の磯「オオツクロ」 竿 SHIMANO 磯遠投EV3号 リール SHIMANO ナスキーC3000 道糸 DUEL ...
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